「ビルマがキチガイ的に大好きな人」という意味です。
ビルキチの語源
ビルキチとは(ビルマキチガイ)つまり「ビルマがキチガイ的に大好きな人」という意味です。その「ビルキチ」という言葉の語源は、第二次世界大戦中から戦後を通じ日本とビルマ(現在のミャンマー)は緊密な関係にあった頃から言い始められたと言われています。
ビルキチ(ビルマがキチガイ的に大好きな人)が続出した理由
第二次世界大戦中、有名なインパール作戦(第二次世界大戦のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では『史上最悪の作戦』と言われている。)も、ビルマ(現在のミャンマー)が舞台であった。
その時のビルマ(現在のミャンマー)での日本兵の戦死:26,000 戦病:30,000以上: 死傷:17,500; 戦病:第33軍団のみで47,000だと言われており、傷ついた日本人兵士がビルマ人に助けられたり、食べ物を分けてもらったり、匿ってもらったり、寝床を与えてもらったり、優しく接してもらった事からビルマ人の優しさと温かさら日本人はビルマ人の事を大好きになり、ビルキチ(ビルマキチガイ)つまり「ビルマがキチガイ的に大好きな人」という言葉が生まれたとされています。
戦後になってもビルマ人の事を大好きになり、人々の優しさと温かなミャンマー社会が好きで日本に帰らずにミャンマーに残った日本兵も少なくないと言われています。
その後、ビルマ(現在のミャンマー)に、何らかの形でビルマ(現在のミャンマー)にかかわった日本人を魅了したという事実もあるそうです。
その現象は、現在でも続いていて、その証拠に多くは日本人が「ビルキチ」になりビルマ在住の日本人も多く、何度もリピートする観光客も多いのです。
現在でもミャンマーには、日本兵の慰霊碑や遺品などが沢山残っており、ミャンマーの田舎の山奥で「これは日本人のお墓だ」などと連れて行ってもらった事も何度もある。また、日本兵の名前が書かれた短刀や弁当箱のようなものも見せてもらった事もある。
ビルキチの歴史
日本人はビルマ(現在のミャンマー)を大好きであり、昔から少なからずビルキチな部分がありビルマ(現在のミャンマー)と深く関わってきた。
1960~1980年代
1960年代半ばから1980年代の終わりまで、日本が援助や貿易でミャンマーにおいて大変貢献しました。援助や貿易で多くの日本人がミャンマーを訪れ、ミャンマーからも日本は大変頼りにされました。
そんな中で、ミャンマーを訪れた日本人がビルマ人の優しさや暖かさに魅了されていく人も多かったとい訳です。
1988年の民主化暴動
1988年の民主化暴動以後、円借款が停止され、ミャンマー軍事政権と日本政府の関係も必ずしも順調ではなかったうえ、欧米諸国の経済制裁の影響もあり経済関係も低迷していたことから、日本とミャンマーの人的パイプもとても細いものになっていました。アウンサンスーチー女史を指導者とした民主化運動が起きたが、弾圧が続いた。この時代は日本人はミャンマーについてほとんど知識や関心を持たない状態でした。
1989年、国際表記をビルマからミャンマーに変更
軍事政権は1989年には国号の国際表記をビルマからミャンマーに変更した。その後も民主化運動が断続的に起こる。日本も関心を持ち大きく報道した。
2006年、首都をヤンゴンからネピドーに移転
首都ネピドーへの移転 2006年、ミャンマーの軍事政権は、首都機能を従来のヤンゴンから、新首都ネピドーにへの移転を強行した。
占いで決まったと噂されているが真実は不明。
2010年、スーチー女史、自宅軟禁を解かれた
2010年に自宅軟禁を解かれたスーチー女史は政界に復帰。日本でも大きく報道した。
2016年、スーチー女史、国家最高顧問
スーチー女史、2016年3月に国家最高顧問として実質的な政権の座についた。
2017年、ロヒンギャ問題
ロヒンギャ問題、ビルマ西部のバングラデシュに隣接したアラカン山脈地域(現地ではラカイン州)で、イスラーム教徒少数民族であるロヒンギャの村を、ミャンマー国軍が襲撃して多数の死者が出るという事件がおこった。日本も援助したり大きく報道した。
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